人生の暇つぶしだが、豊かな時間でもある。
さて。あと10日あまりで函館マラソン(6/26)である。
なんと今年はじめてのレースだ。
昨年8月に整形外科で腰部脊柱管狭窄症(ようぶせきちゅうかんきょうさくしょう)と診断され、ほとんど走れないまま北海道マラソンに参加し、あえなく12km余でリタイア。その後も満足とはほど遠い走りがつづき、10月の別海パイロットマラソンは5時間超のフィニッシュ。
そして来季こそはと、冬は無理せずじっくりほどほどに走り込もうと目論んだのだが、2月に家人の冬道転倒による複雑骨折事件がおきてしまう。それに関するエントリーにも書いたが、本人にとってあまりにも残酷で痛恨の事故であり、僕自身の食欲や走欲もなくす出来事だった。くわえて仕事の繁忙期、腰痛、帯状疱疹罹患ときては走れるわけがない。
けっきょく2月から4月のランは各1日、距離は合計でもたった40km余だったが、ゴールデンウィークを過ぎてからランを再開し、週に土日を含め少なくとも3日は走るようになった。腰の不安を抱えているので、そろりそろりの短い距離からはじめたが、ようやく日曜日には30km超のLSDができるまで復活した。
自慢できる話じゃないけれど、走歴十数年だがひ弱なランナーである僕は、腰やひざ、すね、かかとなどを何度も痛めてきた。そのたびに針や整体などの治療を施したり、自らネットで情報を集めたり、安静を課したりしてきたのである。そしてそのあいまに頑張って、ほんのちょっとだけは自己ベストを更新してきた。誰かと比べるのではなく、当人比でささやかな成長を愉しんできたわけだ。それでも密かに人と競ったことがないわけではないが。
走り始めた頃から「ちゃんとしたトレーニングとケア」をきちんとしていたら、こんな僕でももう少しいい記録を残せたかもしれないが、そうだとしてもその記録は誰かと比べるとやはり見劣りがするに違いない。当たり前だ、オリンピック選手ではないんだし、せいぜい同レベルのランナーと比べての優劣にしか過ぎない。それでも人と競うことはよりレベルの高い成長を促すことだから、向上心がむくむくしているときは頑張った方がよいと思う。自分の限界に挑戦するとか、新しい自分を発見するためとかなんでもよい。もしかしたら誰かのためでもいいかもしれない。
僕はそういうものはもうない。もともと運動能力は低いし足も速くなかった。たしょう持久力があった程度だ。年齢でいえば同じ世代でもまだ記録を伸ばしている人はいるし、70代でも頑張っている人はいる。でも、いま自分自身のカラダの声を聞くと、あまり頑張りたくないと言っているのだ。仕方がない。正直になろう。たぶんここ一、二年(つまりは結果的に還暦後、だな)で気持が萎えてきたんだと思う。これは個人差というヤツだから無理することはない。
走ることが嫌になったわけではないし、むしろその逆。走ることは僕にとって欠かせない人生の暇つぶし、というと誰かに怒られそうだが、贅沢で豊かな時間の過ごし方でもあるのだ。つまりもっと愉しむためにも、ゆっくりめに走りつづけたいと思う。
というわけで、2016函館マラソン。自己ベストとかサブフォーとか、なにかしらの目標など何もないからね、ただゆっくりと愉しんで走るだけだもん、ということは上に書いた。昨日13日には事務局からナンバーカードや参加記念品等引換証などが届いた。いよいよだ。頑張らないとは書いたけれど、やっぱり大会当日になると、そのときに頑張れる範囲で頑張ってしまうんだよね。
公式サイトを覗いてみると、エイドは充実しているもようだが、残念ながら遅いランナーには恩恵は少なそうだ。「函館マラソン準備状況」というコンテンツ(まとめ)は読み応えがあって面白かった。いっきに読みたいという奇特な方はどうぞとのこと。
25日は早めに出発し墓参りの予定だ。マラソン当日は家人の応援はなし。また怪我をされてはたまらない。月曜日は休みをとる予定なので、走った後は大沼公園に移動することになっている。夏休み前の初夏の休日を楽しんでこよう。
太宰府天満宮のスタバと10宅論
今朝(2016.5.21)の「サワコの朝」のゲストは建築家の隈研吾さん。2020年・東京オリンピックのメイン会場となる新国立競技場のデザインをした。最初のコンペでザハ案に決定したものの工期・費用等いろいろと問題が起きて再コンペになったあの新国立競技場の設計である。「木と緑のスタジアム」をコンセプトにした案であり、聖火台を設置する場所がないというニュースも流れたりした。
その番組の中で太宰府天満宮のスタバが紹介されたのだが、ここは一昨年、還暦旅行でカミさんと九州旅行をした際に二度も立ち寄った店だった。二人で「あーっあそこだ!」とテレビの前で叫んでいた。木材による伝統と現代の融合がなされた設計のスタバなのである。このデザインも隈研吾なのだ。もちろん当時はそんなことは知らない。とうぜん彼とは面識はないのだけど、1954年生まれの僕と同い年。この場所でカミさんを撮った写真もあったので、思わずライブラリを探してしまった。
さらに奇遇はあるもので、不要になった文庫・雑誌等を今日処分しようと、数週間前にデパートの買物袋に詰めていた本の一番上に、なんと彼の著した本があったのだ。それがこの「10宅論」。「じったくろん」ではなく「じゅうたくろん」である。もちろん捨てるのはやめてもう一度読むことにした。すんでのところ、一命をとりとめたのであった(?)。恐るべし隈研吾。
今日はすこし遠回りで帰宅ラン
「RUNだむ日記+Plus」なのに「ラン」のダイアリーが少ない。
じゅうぶん承知している。いろいろと走れない事情があったので、まあ仕方がないと思ってはいるが、ゴールデンウィークを過ぎてようやく走れるようになってきた。
家人の骨折・入院にはじまり、仕事の繁忙期、自身の腰痛・帯状疱疹ときての走力減退があったので、ゼロとは言わないが、ほとんどイチからのランを8日から再開し数日おきに走っている。
昨年還暦も迎えたので、以前はたまに走っていた「早朝」ランを今年からはやめようと思っている。目を覚ましてすぐに走っていたのだが、それは心の臓とかにあまりよろしくない気がしてきたのである。かといって少し時間をおいて走るほどの時間的余裕はあるわけがない。仕事があるのだから。
そんなわけで今年は週末のランに加えて、平日の帰宅ランを週一くらいでやろうかなと考えている。今日も走って帰ってきた。先週は会社から最短距離で6.6km、今日はそれよりもちょっと遠回りした。はじめて一条橋経由で南郷通からの白石サイクリングロード入り。会社を出たのは6時だがこの時期なのでまだまだ明るい。
東札幌1条2丁目。実質的な白石CRの起点。
桜その一。上から目線。環状夢の橋(いま調べて初めて名前を知った)。
桜その二。下から目線と月。
仕事帰りでサイクリングロードを歩いている人もけっこういる。もちろんランナーやウォーカーや犬の散歩もたくさん。ココロ穏やかになる夕暮れどきだ。
今年は10年以上参加していた洞爺湖マラソンをやめ、函館マラソンにエントリーしている。6月26日まであと39日。しかない のではあるが、別に自己ベストを狙っているわけではない(当たり前だ、ぜったい無理)し、完走さえできればうれしいので、39日もあるとも言える。すこしずつ距離を積み重ねていけばいいのだ。
今日はすこし遠回りしたので9kmの帰宅ランとなり、今月トータルで40kmを超えた。月末には100kmまでいくといいのだけど。
とうぜん、ゴール(帰宅)後はこうなる。
お疲れさま!
疲れたカラダとココロに休息を。
4月9日、「元祖!くりやま老舗祭りに走っていく会2016」に参加し、浴びるように日本酒を飲んだ。このランイベントに僕はまさに第1回から参加している。しかし今年は家人が2月に雪道で滑って転び、複雑骨折で長期入院を余儀なくされたことにより、僕自身も気持的にダメージを受けてしまった。走る意欲が萎えてしまい、ふつうは月に100kmから150kmあるいは200km程度の距離を走るのだが、まったくと言っていいほど走れずに二カ月が過ぎていた。
週に1、2回走っていれば20数キロのイベントランはとくにどうということはない。ゆっくりと走るのだし。楽しく会話しながらのランは、距離を短く感じさせてもくれる。
だがこの二カ月ほとんど走ってないのだから、長距離を走る足はできていなかった。長沼スタートの14kmコースにすれば良かったのに、つい例年どおりの北広島スタートにしたため、その前に12kmを走らねばならない。合計26kmだ。けっきょく、まともな走りは前半だけで、後半はほかの方を待たせること数回におよび、たいへんな迷惑をかけてしまったのだ。恐縮しきりなのである。それでも風呂に入り、老舗祭りでは酒を飲み、みんなと楽しい一日を過ごすことはできた。
本題はここからである。
このランで翌日から腰痛がのこった。まあよくあることなので、ストレッチで少しずつ回復させていこうと思っていたがうまくいかない。数日後からは湿布を貼った。でも芳しくない。触ってみると右腰あたりがぱんぱんに張っている。しかも湿布に負けたのか、数カ所かぶれているようだ。しかたないので今度は患部をひと晩、冷やしてみた。それでも痛みは去らない。湿布もダメで冷やしてもダメなら、やはり無理せずにストレッチでゆっくりと癒すしかないか。
ところが、数日やってもぜんぜん良くならない。痛みは減るどころか日に日に増していった。
昨日の夜だった。
何日たっても良くならない腰を掌でさすっていてふと気づいた。この、ぶつぶつした患部は湿布でかぶれたのではなく発疹ではないのか? 皮膚病の発疹じゃないだろうか。だとすると、これはもしかしてよく耳にする帯状疱疹なのではないか? たまたま右腰に出て腰痛と勘違いしてしまったのでは? 家人にも確かめると同意した。
インターネットでも調べてみると、やはりかなり怪しい。ほぼ確定のような気がする。
そこで今朝は皮膚科に直行したわけである。
受付のお姉さんに提出を求められ、保険証を忘れたことに気づき、とりに帰るという失態はあったが、無事に診察を受けることができた。
ズボンをおろし美尻な半ケツを医者に見せるなり「あー、典型的な帯状疱疹だね」という診断であった。こどもの頃に水ぼうそうを患い、潜伏したウィルスが年月を経て、過労・ストレスや老化などを引金に発症するようだ。運動とアルコールはだめ、栄養をとってカラダとココロを休めることと指導され、飲み薬と塗り薬を処方してもらったのである。
家人の手術・入院にともない僕のソフトなココロも痛み、毎日の家事があり、春なので本業の仕事も忙しかった。さらに総務・経理の実務なども加わり、自覚している以上にカラダも疲れ、さらにストレスもピークに達していたのだろう。
……などと、酒は飲めないのでお茶をすすりながらブログをアップするのだった。
トホホな一日。
ふたつの自問
やさしい気持ちとやさしい春。
今日はいろいろと忙しく、あっという間に一日が過ぎた。
なにしろ月末である。
吹けば飛ぶ超零細企業でも支払いなど資金移動は少なからずある。
いつもその仕事をやっているヒトが複雑骨折をして入院中なので、先月もタイヘンだったが、今月も僕が朝から清田区の銀行ATMと格闘することになった。
詳しく説明するのもアレだが、なにしろ入金されたばかりの金なのに、ウチの口座を温める間もなく支払いにまわさねばならない。
その作業の中でちょっと不明のことがあり、複雑骨折のヒトに電話をくれとメールを送る。病室では携帯電話の通話は禁止されているので、レストルームからの返信を少し待たねばならない。
ATMは何台も並んでいるが、気が小さいので後ろにたくさんの方がいると気になり、いったん機械を離れる。連絡をとって話が見えたので再び列に並び、ATMの前では話しながら作業を進めるがけっこう時間がかかる。
しかしATMの前で携帯電話をしながら「えーと、6、3……8……3……えっ?」とか、あーだこーだやっているのだ。ハタから見ると完全に振り込め詐欺の被害者である。
そのことに、はっと気づいた。そうすると、振り込め詐欺ではありませんからねという演技もしなければならぬ。あはは、そーなんだ、へー、いやいや。……まったく朝から疲れる。
そうこうするうちに、複雑骨折をしていたヒトの退院時間が迫ってきた。
2月16日に入院して以来1ヶ月半。とりあえずなのだが、ようやく退院である。
ほんとうは、銀行でまだやらねばならないことがあったが、中断して厚別区のH病院へむかう。
同室の方やナースステーションやリハビリルームで穏やかにハズバンド・スマイル。
正面玄関に横付けした洗車したてのマイカーに、複雑骨折のヒトを乗せて病院をあとにした。スーパーと佐藤水産に寄り、おもに食料品を購入。
帰宅して、1ヶ月半に及ぶ入院生活の荷物を運び整理して片付ける。
買ってきた昼食(佐藤水産のおにぎり、海鮮バーガー)をゆっくり食べた。
午後からは豊平区の銀行窓口とATMでひと仕事。今日の仕事はスタッフに引き継いでいるので、午後からも出社はない。
空を見あげると、ひきつづき天気は春のようすで気温もまずまず暖かい。
洗濯機をまわしている間に、久しぶりに走ることにした。
先月3日に7.5km走って以来の57日ぶりである。鼻や喉の違和感があったので、そのあと数日ランを少し控えているうちに、運命のあの日になってしまった。
2月15日、うちのカミさんが横断歩道で転んでしまったのだ。その日以来、走る気がまったく無くなってしまった。
うまく説明できないが、昨年夏、彼女が左ひざ半月板の手術で1ヶ月入院したときはそんなことはなかった。そのときは、ずうっと病んでいた膝の痛みをとるために本人が自ら決断した手術だったが、今回はそのときの術後の辛いリハビリがようやく実り、ほぼ完治に近づいていたタイミングでの転倒、緊急手術だったのだ。
本人の気持ちを考えると、僕自身の食欲もなくなるほどの衝撃的なできごとだった。
そうはいっても日々の仕事や生活もあるし、加えて出張も発生した。
けが人の見舞いや世話もある。忙しいのに自分の食事や弁当もけっこうがんばった。
貧乏性だからか、なぜか必要以上に節約もした。
けっきょく、この2ヶ月は走る気がまったくおきなかったのだ。
そして今日、57日ぶりに走った。
昼下がりのサイクリングロード。春を見つけながらのんびりと走った。
小さな花のつぼみが開いていた。ふきのとうも顔をのぞかせていた。雪の下から出てきたゴミもたくさんあった。
スケートボードの少年たちが何人も遊んでいた。大学生がキャンパスを歩いていた。
向ヶ丘通に出ると、曲がろうとしているトラックの運転手さんがバックして道を譲ってくれた。FUSOのトラックに乗っていた人だ。
サングラスはしていたけれど僕は笑顔で会釈した。すると白い短髪のおじさんもニコっと会釈してくれた。
清々しい気分で走っていると、今度はすれ違った自転車の若いおじさんが「お疲れさま!」と声をかけてくれた。そんなにへろへろに見えたんだろうか。
それとも、春なのでみんな優しい気持ちになっていたのだろうか。
僕はニコニコとゴールしたのだった。10キロ走った。
複雑骨折したヒトは、4月になると新規移転したSクリニックで詳しい検査があり、場合によっては再入院もあるかもしれないし、両松葉杖も夏頃までは手放せない。
しかも腿の14本のボルトが入ったまま1年を過ごさねばならない。
とても満開の春が来たとはいえないのが苦しいけれど、それでも一日一日、前に進むしかないので、できるだけ笑顔で毎日を過ごそうと思う。