RUNだむ日記+plus!

還暦過ぎて腰も痛いので、よろよろ走ってます! RUNだむ日記【Returns!】もあります。

こんな記事をアップするためにブログを再開した訳じゃない。

タイトルにあるとおり、気が重いままパソコンに向かっている。
どんなふうに書き出せばいいのやら、まったく見当がつかないが、思い出せることから書くことにした。

 

先週15日の月曜日夕方5時過ぎ、仕事場に妻から「道路で滑って転んでしまった」と電話があった。はじめは、転んだその場からかけてくるくらいだから、そんなに大変なことだとは思わなかった。
しかし痛めたのは昨年半月板の手術をしたばかりの左脚らしい。「すごく痛くて立てない。折れてると思う。どうしよう?」と不安気に訴えるその声が震え、ただごとではない状態を伝えていた。場所を聞くと自宅の近くだが、様子を聞く限りでは、病院に行かねばならないのは確実だった。

 

救急車を呼ぶしかないと伝えると「それだと知らない救急病院に運ばれてしまう。半月板の手術をしてくれたY先生に診てもらったほうが、よりいい処置をしてくれると思う」と訴える。そして「なんとかタクシーに乗ってみる」と言い、いったん電話は切れた。だが、そんな状態でタクシーを止め、折れた脚で乗れるものだろうか。すぐにも駆けつけてやりたいのは山々だが、それより一刻でも早く医者に診てもらった方がいいに決まっている。本人がSクリニックに連絡すると、さいわい主治医のY先生はまだ院内にいた。「待機してくれることになった」と後から連絡があり、タクシーには乗れたようだった。

 

すぐに仕事を切りあげ地下鉄駅まで走り、降りてからも走って自宅へ戻った。その足で車に乗り込み病院に向かう。病院近くの有料駐車場に車を預け、受付カウンターで名乗ると、ご主人ですかと笑顔で応対してくれた。その笑顔に少し違和感を覚えつつも、もしかして意外と軽傷の可能性もあるのかなと気が緩んでしまったが、そうではなかった。

 

すでに診察だかレントゲンだかを受けているようなので、とりあえずロビーの長椅子で待っていると、ほどなく若い男性が僕を呼びにきた。診察室に入ると、背を向けて妻が座っていて、Y医師は壁に吊ったレントゲン写真を見ている。その後ろ側にはS医師もおり、看護師や理学療法士もたくさん立っていて驚いた。その場の空気を感じ取ろうと神経を尖らせたが、ピリピリしているようであり、それほどでもない緩さも感じ、よく分からなかった。後から考えると、それはどちらも当たっていたのだろう。昨年の手術のことを知っている顔見知りも多く、そんなに軽い骨折ではなかったからピリピリもするだろうが、患者の意識そのものはあり、家族である僕も傍にいるのだから、必要以上に深刻さを感じさせてはいけないという思いがあったのかもしれない。

 

妻の顔を見て何か声をかけようと思ったが、言葉が浮かんでこなかった。目を見て頷いただけだった。大丈夫かというのはあまりに酷だった。左ひざ半月板の手術をして、半年以上の辛いリハビリに毎日耐え続け、ようやく杖を補助にすればけっこう歩けるようになってきたのだ。夏になれば義父母の眠る函館の墓にも行き、函館山の登山は無理でも、赤レンガ倉庫群あたりの散歩ならできるなと話していたのに。そんな希望はまた気が遠くなるほどはるか先のことになってしまった。

 

勧められた丸椅子に座ったが、レントゲン写真を見ながらY医師の説明が始まると、身を乗り出して中腰で話を聞いた。昨年手術した半月板そのものへのダメージはないが、膝の近くの骨が三ヵ所折れているという。写真を見てもどこがどうなのかよくは分からないが、医師曰く「どう転んだらこんなふうに骨折するのか」というほど、ずれるような珍しい複雑な折れ方らしい。本人に聞いても、まったく覚えていないと言う。

 

Sクリニックは、もともとリハビリ室は充実しているが手術室や病室はない。提携している別な病院での手術になるのだが、今日これからの入院は無理だと言われ、明朝その病院に行くことが決まった。だが、それはつまり、この折れた脚で今日は帰りなさいということだった。もちろん患部が痛まないようにシーネ(添え木)をして、固く包帯も巻いてはいる。痛み止めの処置や効き目の強い薬もくれた。しかし三ヵ所も骨折しているのに自分で帰れとは……。たしかに救急車を呼んでもらって病院から自宅に帰る、というのもあまり聞いたことはないけれど、それでも、膝を擦りむいたのではないのだ、何とかならないものなんだろうか。

 

けっきょく僕の車で連れて帰ることになったが、ビジネス街にある病院なので建物の入口には横付けできない。歩道の積雪はさほどないが、路側帯あたりには雪がこんもりとあり、正面の国道側からは乗せられない。中通り側の歩道からなら乗れそうだったので車はそこに付けた。院内から女性看護師が車いすを押してくれ、もう一人の方と二人がかりで、助手席に彼女を乗せてくれた。僕はただオロオロするばかりだった。

 

半月板が完治する前の転倒などはもってのほかで、ふだんから細心の注意はしていたのに、氷のような雪道で滑って転んでしまった。転ぶにしてもステンと尻をつけばまだ良かったのかもしれないが、無意識に左ひざを庇うような動作をしてしまったのだろうか。三ヵ所の複雑な骨折が、その転び方は最悪だったことを証明している。街なかで用事を済ませ、スーパーに寄っての帰り道だったとは聞いたが、出かける時間帯が違っていればとか、あの道を通らなかったらとか、そのときその場所で転ぶ必然性はどこにもないのだから、後悔先に立たずとはいえどうしようもなく悔しいだろうと思う。岩をも突き抜けるほど悔しいのではないだろうか。

 

自宅に向かう車の中で、病院では聞けなかった話をした。
転んで痛んでいるときに通りかかった女性が、たまたま医療関係に勤めている方で、極めて適切な対応をしてくれたそうだ。近くにいた男性二人にも助けを求め、さらにタクシーを止め、上手に乗せてくれたと言う。運転手さんもいい方だったらしく、Sクリニックに着いたときには看護師さんらへの引き渡しもスムーズにおこなってくれた。連絡先や名前を聞いたが教えてくれなかった親切な女性をはじめ、みなさんにはこころから感謝したい。

 

慎重に運転してはいるが、少なからず振動があるのだから骨に響かないはずはない。脚はシーネと包帯で固定しており、痛み止めの処置をされているとはいえ、痛みはじんじんとかズキズキとかするだろう。だが怪我も大きいが、精神的な傷の大きさはもっと計りしれない。僕が受けているショックなどは、吹けば飛んでいくゴミみたいなものだ。車内での会話が弾むわけはないのだが、妙に彼女のテンションが高くなったりもして、それがかえって冬の花火のようにもの哀しい。

 

マンションの駐車場に着いてからも地獄だった。棟の入口前に止められるわけではないし、車から降りるだけでも極めて至難だ。しかも数十メートルは松葉杖を使って歩かねばならず、エレベータに乗り自宅にあがらねばならない。背中におぶえるならそうするのだが、脚を三ヵ所も骨折している人間をどうやっておぶえるだろう。半月板手術後のリハビリで、松葉杖を使えるようになっていたのだけが救いだったが、数歩歩いては立ち止まり数歩歩いては休んだ。

 

部屋にあがるのもまたひと苦労だったが、焦るわけにはいかないので慎重に行動した。
今日おきた不幸な出来事を掘り返す気にはなれない。転倒時に持っていた荷物の整理や入院にあたって必要なものの準備や段取りをしているうちに、あっという間に日付が変わった。息子たち二人に母親の骨折のことをメールで連絡すると、相次いで連絡があり僕よりもていねいに慰めてくれた。

朝まで起きているわけにもいかないので、ベッドを整えとにかく横にならせたが、朝までほとんど眠れなかったらしい。夜中じゅうずっと脚とこころの痛みに押しつぶされていたに違いない。なぜこんな酷いめに合わなければならないのか。どうして神さまは、からだや精神の痛みを人々にもっと平等に配らないのか。どこかのだれかに偏ってはいないだろうか。
不条理な悔しさや悲しみ、あるいはぶつけどころのない憤りに満ちた昏い夜だったのは僕も同じで、やはり微睡むこともほとんどなかった。

 

午前中の仕事は休み、H病院には11時に着いた。あらかじめSクリニックから連絡があったので、看護師が車いすを用意して出迎えてくれた。昨年もお世話になったので勝手は分かっている。入院手続きを済ませエレベータで病室へ向かう。するとその情景がつい半年前のシーンと重なった。ナースステーション、ロビー、ランドリールーム、そしてホスピタルな空気。またここへ還ってきてしまった。ふりだしに戻ってしまったのだ。

 

手術は翌々日の木曜日だった。
僕は仕事を一日休み、午前9時には手術室の前まで見送った。手術は全身麻酔でおこなわれ12時までかかった。病室に帰ってきた妻は眠っていたが、幸福そうな顔はしていなかった。しかし手術は終わったのだ。今ここからは、このときからは、ただ治癒に向かっていくだけのはずだった。

 

執刀したY医師の話を聞いたのはしばらく時間がたってからで、レントゲン写真を見ながら手術の内容を説明してくれた。折れた箇所をそれぞれ戻して、それらを固定するために20センチものプレートを14本のボルトねじで止めたと言う。たしかに写真を見ると十数本のボルトが串刺しになって見える。僕はどこも痛くはないのに気を失いそうになった。画像は紛れもない事実かもしれないが、冗談はやめてくれと文句を言いたかった。
そのプレートは1年後に取り出すので、また入院・手術となる。もしボルトを14本一度に抜くのが危険な場合は、さらにもう1年後に再入院になるとも言うのだ。僕は言葉も顔色も失った。

 

病室に戻り概ねの話を聞かせ、二人でため息をついた。
亡くなった岳父は、幼い頃に結核性関節炎の激痛で片足を切断した人だった。その血、あるいは痛みに耐え抜く精神を引き継いだのか、彼女も人一倍痛みには強い。とはいえ座薬と飲薬をもってしても、骨に突き刺さる痛みは堪えられないようで、夜は睡眠剤でつかの間の眠りを誘うしかなかった。

 

あたり前だが女は男と違う。いろいろな性差があり、生物学的な差はもちろん、体力・筋力や行動心理、価値観など、あらゆる違いが認められる。そうしたなかで、妊娠により胎児にカルシウムをはじめ栄養を吸い取られもするし、一定期間が過ぎると生理も閉経する。それによって失われるカルシウムも少なくないと聞いた。骨量が減少し骨密度も低くなるのだ。絵里子は十年前に子宮も全摘出している。そのこともカルシウム不足に関連するようだ。もしかすると骨粗鬆症的なものが誘因となり、転倒をきっかけとして骨折にいたったのかもしれない。
いまさら遅きに失した感はあるが、どうせならば長生きは元気で健康に過ごしたいものであり、退院したらより生活に細心の注意をはらわねばと肝に銘じた。女性はとくに気をつけたいものだ。

 

 


今日で手術から10日余りがすぎた。
割りきれない日々は続くが、それでも一日過ぎればその一日分の傷だけは癒されていくことを信じるしかない。
この日記をアップするにあたり、こんなものを公開するのはどうかとも思ったが、胸の中のものを吐露せずにはどうにも先には進めない気がした。

 

夕方に連絡があり、次男が週末に帰札して見舞いに来ることになった。
きっと僕よりはうまく力づけてくれる。
なにしろ、母親から容赦なくカルシウムを奪っていったうちの一人なんだから、地球よりも重い責任がある。

 


(この日記はカミさんに無断でのアップなんだけど)