RUNだむ日記+plus!

還暦過ぎて腰も痛いので、よろよろ走ってます! RUNだむ日記【Returns!】もあります。

トホホな一日。

f:id:navi1954:20160413220128j:plain

この手の二段の弁当箱はだいたいそうだと思うが、僕のものも下の箱にごはんを入れ、その上にフタ付きのひとまわり小さい箱におかずをのせ、さらにフタをかぶせるというものだ。写真もちゃんとそうなっている。だがここに至るまでの僕の苦労は誰も知らない。どうもダメな日は何をやってもダメで、勘違い、失敗、物忘れなどが重なり、今日はそれがとくに朝に集中した。
 
カミさんが不幸な骨折(幸福な骨折なんてないが)をして、二ヶ月になろうとしている。昨年夏の左ひざ半月板の手術・入院・リハビリを経てようやくほぼ完治が目の前まで見えていたのに、2月に横断歩道で転倒し同じ左足大腿骨などの複雑骨折をしてしまったのだ。先月末にH病院をいったん退院したが、今月4日から移転新規開院したSクリニックで再検査をうけた結果、初入院患者として集中リハビリをおこなっているのである。
 
前回もそうだったが、一人暮らしの生活はそんなにたいへんではない。もちろん掃除など至らぬところは多々あるが、その他の家事はさほど苦ではない。むしろ食事のしたくなどけっこう楽しむ余裕もあった。が、そうはいってもさすがに飽きてきて、夕飯を作ることはやや少なくなっている。
しかし昼の弁当は相変わらずけっこう作っている。週に3日くらいは作っている。ただ、毎度似たようなもので、ウィンナをタコにするわけでなし、キャラ弁でもない(当たり前だ)し、カラフルとはほど遠い色合いだ。
 
右はさんまの蒲焼き(缶詰)で下にキャベツ煮。真ん中は人参のごま油炒め。左は冷凍食品のカボチャフライとミニコロッケで下に野菜サラダを敷いている。朝からキャベツや人参を刻み、電子レンジやフライパンで調理し弁当箱に詰めたのである。おかずは多めだったはずだが余裕で収まった。つぎにごはんを詰めようとすると、おかず用の小さめの箱しかない。またやってしまった。ごはん用の大きい箱におかずを入れてしまったのだ。これ、前もやってしまったことがある。しかたない。入れ替えることにした。おかずを入れてしまった箱は油まみれなので洗わねばならない。しかも蒲焼きの汁がシャツに飛んでしまったではないか。洗濯機をまわすヒマはない。とりあえず洗面器で予備洗いをし浸けておき、帰宅してから処理することとした。ただでさえ時間のない朝になにをやっとるんだ。
 
一人暮らし中の僕の朝メシはほとんどパンである。トーストが多いがサンドもたまには作る。だいたいは紅茶を飲みながら食べる。今朝も弁当のおかずを作りながら、ほどよいタイミングで紅茶を入れた。できる男は時間をうまく使わねばね。
バターとジャムを冷蔵庫から出して準備する。さてパンを焼くか。
 
あっ! ……パンがないではないか。先週もやったのに、またやってしまった。
しかたがない。ごはんにする。
さいわい、弁当のおかずを小さいほうに入れ替えたので少し余っている。これをおかずにできる。明太子のり(江戸むらさきみたいなの)もあったし。味噌汁かお茶をいれようと思ったが、せっかく入れた紅茶があるので、むりやり紅茶でご飯を食べた。ちょっと微妙だったがそれなりに美味しく朝ごはんをいただいたのであった。
 
新聞の天気予報は午後遅くから傘マークだった気がしたので、家を出る際にあわてて長い傘を持った。しかし、出勤途中ほとんど誰も長い傘など持っていない。おそらく折りたたみ傘はバッグに入っているかもしれないが。しかも僕は会社にいつも予備の傘を置いているのである。思考能力ゼロだ。
 
朝はそんなことがあったが、お昼の弁当は無事にすませた。
とはいえ、後からよくよく考えると別にごはんはその小さめの箱に入れても良かった気がする。たしょう炭水化物が少なくても何のモンダイもないじゃないか。なんだったのだろう、朝のドタバタは。
 
午後は経理と総務の仕事で銀行とデパートに行った。出かける前には、用事が済んだらたまにコーヒーでも飲むかと思っていたのに、すっかり忘れてまっすぐ会社に帰ってしまった。
 
僕が帰宅する時間帯に雨はけっきょく降らなかった。長い傘は無駄になったのである。
もう今日という日はなかったことにしたい。
が、あまりに情けないので日記に書き留めるのであった。

 

ふたつの自問

 自分は何歳まで生きるだろうと考えることがある。
 
 人は誰でもそういうことを考える。犬や猫は考えない。いや、猫は考えてるかもしらん。薄目を開けて哲学的な思考に耽っているところを邪魔すると、さも軽蔑するような仕草で無視されたりする。寿命について考えていたのかもしれない。
 

f:id:navi1954:20160407211235j:plain

 
 僕はこどもの頃「死」が怖かった。今でも怖い。しかし誰も死ななきゃ地球は人で一杯になってしまう。日本は小さな島国だから、はやい段階で人間が溢れ、確実に海岸線からドボドボとこぼれていく。そうなったら困るので、生まれたら死ななければならない。
 
 そこで、冒頭の「自分は何歳まで生きるか」である。つまり何歳で死ぬかだ。もちろん分からないし歳の順でもない。金を持っていようが、いい人だろうが、犯罪者であろうが関係ない。長距離を走るのが好きでも嫌いでも、好きな人がいてもいなくても、死ぬときがきたら死ぬ。どんなに健康に気をつけていても平均寿命より早死にすることはある。
 
 同じような自問で、何歳まで働くかというのもある。経済的な問題だけなら、もともと恵まれた家系の方や、がんばって財産を築いた方は悠々自適、思いのまま暮らせばよいし、そうでなければ歯を食いしばって働くしかないのだがそれだけではない。なにしろ、いきがいとか使命とか面倒くさいことも絡んできたりする。僕の場合は超零細だが経営をしているので、この会社をどうするかというモンダイも大きい。会社をたたむのはタイヘンだ。M&Aだってもっとタイヘンなのである。
 
 還暦を過ぎたからこのふたつの自問は、じっさいは隣り合わせである。望んだ訳ではないが生まれてきて今日まで生きてきた。人生の意味を深く考えれば考えるほど、意味はさほどない、という答えに辿りついてしまう自分がいる。猫より劣るかもしれない。せっかく生まれてきたんだから楽しんでいけば? と人ごとのように思ってしまう自分がいる。
 そんなニヒリズムにも似た思考から導きだされるものはたいした結論ではない。そもそも先の問は自分で出せる答えはないし、後の問はけっきょく、自分が決めるしかない。
 
人の生きざまや死にざまを本で読んだり、テレビで見たりすると我が身を省みる。しかし無名の男がただただ、あがいて生きているだけである。
 
今夜はしとしと春の雨。ぬる燗が旨い。
 
ひっく。

 

やさしい気持ちとやさしい春。

今日はいろいろと忙しく、あっという間に一日が過ぎた。

なにしろ月末である。

吹けば飛ぶ超零細企業でも支払いなど資金移動は少なからずある。

いつもその仕事をやっているヒトが複雑骨折をして入院中なので、先月もタイヘンだったが、今月も僕が朝から清田区の銀行ATMと格闘することになった。

 

詳しく説明するのもアレだが、なにしろ入金されたばかりの金なのに、ウチの口座を温める間もなく支払いにまわさねばならない。

その作業の中でちょっと不明のことがあり、複雑骨折のヒトに電話をくれとメールを送る。病室では携帯電話の通話は禁止されているので、レストルームからの返信を少し待たねばならない。

ATMは何台も並んでいるが、気が小さいので後ろにたくさんの方がいると気になり、いったん機械を離れる。連絡をとって話が見えたので再び列に並び、ATMの前では話しながら作業を進めるがけっこう時間がかかる。

しかしATMの前で携帯電話をしながら「えーと、6、3……8……3……えっ?」とか、あーだこーだやっているのだ。ハタから見ると完全に振り込め詐欺の被害者である。

そのことに、はっと気づいた。そうすると、振り込め詐欺ではありませんからねという演技もしなければならぬ。あはは、そーなんだ、へー、いやいや。……まったく朝から疲れる。

 

そうこうするうちに、複雑骨折をしていたヒトの退院時間が迫ってきた。

2月16日に入院して以来1ヶ月半。とりあえずなのだが、ようやく退院である。

ほんとうは、銀行でまだやらねばならないことがあったが、中断して厚別区のH病院へむかう。

同室の方やナースステーションやリハビリルームで穏やかにハズバンド・スマイル。

正面玄関に横付けした洗車したてのマイカーに、複雑骨折のヒトを乗せて病院をあとにした。スーパーと佐藤水産に寄り、おもに食料品を購入。

どちらも車いすマークに駐車し、店の車いすも利用した。

 

帰宅して、1ヶ月半に及ぶ入院生活の荷物を運び整理して片付ける。

買ってきた昼食(佐藤水産のおにぎり、海鮮バーガー)をゆっくり食べた。

午後からは豊平区の銀行窓口とATMでひと仕事。今日の仕事はスタッフに引き継いでいるので、午後からも出社はない。

空を見あげると、ひきつづき天気は春のようすで気温もまずまず暖かい。

洗濯機をまわしている間に、久しぶりに走ることにした。

 

先月3日に7.5km走って以来の57日ぶりである。鼻や喉の違和感があったので、そのあと数日ランを少し控えているうちに、運命のあの日になってしまった。

2月15日、うちのカミさんが横断歩道で転んでしまったのだ。その日以来、走る気がまったく無くなってしまった。

うまく説明できないが、昨年夏、彼女が左ひざ半月板の手術で1ヶ月入院したときはそんなことはなかった。そのときは、ずうっと病んでいた膝の痛みをとるために本人が自ら決断した手術だったが、今回はそのときの術後の辛いリハビリがようやく実り、ほぼ完治に近づいていたタイミングでの転倒、緊急手術だったのだ。

本人の気持ちを考えると、僕自身の食欲もなくなるほどの衝撃的なできごとだった。

そうはいっても日々の仕事や生活もあるし、加えて出張も発生した。

けが人の見舞いや世話もある。忙しいのに自分の食事や弁当もけっこうがんばった。

貧乏性だからか、なぜか必要以上に節約もした。

けっきょく、この2ヶ月は走る気がまったくおきなかったのだ。

 

f:id:navi1954:20160331230220j:plain

f:id:navi1954:20160331230251j:plain

 

そして今日、57日ぶりに走った。

昼下がりのサイクリングロード。春を見つけながらのんびりと走った。

小さな花のつぼみが開いていた。ふきのとうも顔をのぞかせていた。雪の下から出てきたゴミもたくさんあった。

スケートボードの少年たちが何人も遊んでいた。大学生がキャンパスを歩いていた。

向ヶ丘通に出ると、曲がろうとしているトラックの運転手さんがバックして道を譲ってくれた。FUSOのトラックに乗っていた人だ。

サングラスはしていたけれど僕は笑顔で会釈した。すると白い短髪のおじさんもニコっと会釈してくれた。

清々しい気分で走っていると、今度はすれ違った自転車の若いおじさんが「お疲れさま!」と声をかけてくれた。そんなにへろへろに見えたんだろうか。

それとも、春なのでみんな優しい気持ちになっていたのだろうか。

僕はニコニコとゴールしたのだった。10キロ走った。

 

複雑骨折したヒトは、4月になると新規移転したSクリニックで詳しい検査があり、場合によっては再入院もあるかもしれないし、両松葉杖も夏頃までは手放せない。

しかも腿の14本のボルトが入ったまま1年を過ごさねばならない。

とても満開の春が来たとはいえないのが苦しいけれど、それでも一日一日、前に進むしかないので、できるだけ笑顔で毎日を過ごそうと思う。

だが、こころはランナーだ。きっと。

ここのところ、まったく走ってない。

 

1月に100kmを超える距離を走り、2月もそのくらい走れればいいかと思ってはいたが、上旬に一日走っただけでその後は走ってない。3月に入ってからも1kmも、いや1mさえも走ってない。走れなかった。

 

もう40日近く走ってないことになる。はじめの十日ばかりは、風邪ではないけれどそれに近い体調がランを控えさせていた。ところがカミさんの骨折(2月15日)以降は、精神的にもへこみ、走る気そのものがまったくなくなってしまった。ちょうど仕事が忙しい時期に入ったのもある。一人暮らしの炊事(毎日ではないけれど弁当、夕飯づくりも)、洗濯(週一か二)、掃除(たまに)、雑用(いろいろ)。仕事は通常業務と経理等の事務や金策も。加えてカミさんの見舞いと用事たし。なんだかヘトヘト感がいっぱいで、走る気になれないのである。走ると洗濯ものが増えるし。いつもなら朝ランを楽しむ出張も、今回の道南はランの準備さえしなかった。

 

例年出場する5月の洞爺湖マラソンを走るためには、2月のトレーニングも脚づくりに必要だ。しかし幸か不幸か今年のフルは6月の函館マラソンと考えている。1ヶ月以上遅くなるので、トレーニングの遅れもまあ何とかなると思っているものの、すでに3月も中旬になっている。

 

いくらなんでも、そろそろ走らねばと思ってはいるのだが、明日もたぶん走らない。病院にも行くし、買物にも行くし、コンサドーレのホーム開幕戦だし、つまりビールも飲んじゃうし。きっと走れない。走らない。

 

でもいいのだ。だてに年をとってきたわけではない。別に強迫観念に捕われることはない。そもそも、記録を狙うこころざしがもうない。残念だが、ベストタイムを更新するとか、4時間を切るとか、昨年の自分を超えるとかそういう妄執(?)がない。走っても走らなくても、いっこうに構わない。

 

だが、こころはランナーだ。走るのが嫌いになったわけではない。もしも許されるなら大往生(?)する前日も10mくらいは走りたい気持ちがある。きっとそのうち、ふと窓から晴れた空を見て、とつぜんランニングシューズの紐をきゅっと結び、走り出しているに違いない。たぶん。

こんな記事をアップするためにブログを再開した訳じゃない。

タイトルにあるとおり、気が重いままパソコンに向かっている。
どんなふうに書き出せばいいのやら、まったく見当がつかないが、思い出せることから書くことにした。

 

先週15日の月曜日夕方5時過ぎ、仕事場に妻から「道路で滑って転んでしまった」と電話があった。はじめは、転んだその場からかけてくるくらいだから、そんなに大変なことだとは思わなかった。
しかし痛めたのは昨年半月板の手術をしたばかりの左脚らしい。「すごく痛くて立てない。折れてると思う。どうしよう?」と不安気に訴えるその声が震え、ただごとではない状態を伝えていた。場所を聞くと自宅の近くだが、様子を聞く限りでは、病院に行かねばならないのは確実だった。

 

救急車を呼ぶしかないと伝えると「それだと知らない救急病院に運ばれてしまう。半月板の手術をしてくれたY先生に診てもらったほうが、よりいい処置をしてくれると思う」と訴える。そして「なんとかタクシーに乗ってみる」と言い、いったん電話は切れた。だが、そんな状態でタクシーを止め、折れた脚で乗れるものだろうか。すぐにも駆けつけてやりたいのは山々だが、それより一刻でも早く医者に診てもらった方がいいに決まっている。本人がSクリニックに連絡すると、さいわい主治医のY先生はまだ院内にいた。「待機してくれることになった」と後から連絡があり、タクシーには乗れたようだった。

 

すぐに仕事を切りあげ地下鉄駅まで走り、降りてからも走って自宅へ戻った。その足で車に乗り込み病院に向かう。病院近くの有料駐車場に車を預け、受付カウンターで名乗ると、ご主人ですかと笑顔で応対してくれた。その笑顔に少し違和感を覚えつつも、もしかして意外と軽傷の可能性もあるのかなと気が緩んでしまったが、そうではなかった。

 

すでに診察だかレントゲンだかを受けているようなので、とりあえずロビーの長椅子で待っていると、ほどなく若い男性が僕を呼びにきた。診察室に入ると、背を向けて妻が座っていて、Y医師は壁に吊ったレントゲン写真を見ている。その後ろ側にはS医師もおり、看護師や理学療法士もたくさん立っていて驚いた。その場の空気を感じ取ろうと神経を尖らせたが、ピリピリしているようであり、それほどでもない緩さも感じ、よく分からなかった。後から考えると、それはどちらも当たっていたのだろう。昨年の手術のことを知っている顔見知りも多く、そんなに軽い骨折ではなかったからピリピリもするだろうが、患者の意識そのものはあり、家族である僕も傍にいるのだから、必要以上に深刻さを感じさせてはいけないという思いがあったのかもしれない。

 

妻の顔を見て何か声をかけようと思ったが、言葉が浮かんでこなかった。目を見て頷いただけだった。大丈夫かというのはあまりに酷だった。左ひざ半月板の手術をして、半年以上の辛いリハビリに毎日耐え続け、ようやく杖を補助にすればけっこう歩けるようになってきたのだ。夏になれば義父母の眠る函館の墓にも行き、函館山の登山は無理でも、赤レンガ倉庫群あたりの散歩ならできるなと話していたのに。そんな希望はまた気が遠くなるほどはるか先のことになってしまった。

 

勧められた丸椅子に座ったが、レントゲン写真を見ながらY医師の説明が始まると、身を乗り出して中腰で話を聞いた。昨年手術した半月板そのものへのダメージはないが、膝の近くの骨が三ヵ所折れているという。写真を見てもどこがどうなのかよくは分からないが、医師曰く「どう転んだらこんなふうに骨折するのか」というほど、ずれるような珍しい複雑な折れ方らしい。本人に聞いても、まったく覚えていないと言う。

 

Sクリニックは、もともとリハビリ室は充実しているが手術室や病室はない。提携している別な病院での手術になるのだが、今日これからの入院は無理だと言われ、明朝その病院に行くことが決まった。だが、それはつまり、この折れた脚で今日は帰りなさいということだった。もちろん患部が痛まないようにシーネ(添え木)をして、固く包帯も巻いてはいる。痛み止めの処置や効き目の強い薬もくれた。しかし三ヵ所も骨折しているのに自分で帰れとは……。たしかに救急車を呼んでもらって病院から自宅に帰る、というのもあまり聞いたことはないけれど、それでも、膝を擦りむいたのではないのだ、何とかならないものなんだろうか。

 

けっきょく僕の車で連れて帰ることになったが、ビジネス街にある病院なので建物の入口には横付けできない。歩道の積雪はさほどないが、路側帯あたりには雪がこんもりとあり、正面の国道側からは乗せられない。中通り側の歩道からなら乗れそうだったので車はそこに付けた。院内から女性看護師が車いすを押してくれ、もう一人の方と二人がかりで、助手席に彼女を乗せてくれた。僕はただオロオロするばかりだった。

 

半月板が完治する前の転倒などはもってのほかで、ふだんから細心の注意はしていたのに、氷のような雪道で滑って転んでしまった。転ぶにしてもステンと尻をつけばまだ良かったのかもしれないが、無意識に左ひざを庇うような動作をしてしまったのだろうか。三ヵ所の複雑な骨折が、その転び方は最悪だったことを証明している。街なかで用事を済ませ、スーパーに寄っての帰り道だったとは聞いたが、出かける時間帯が違っていればとか、あの道を通らなかったらとか、そのときその場所で転ぶ必然性はどこにもないのだから、後悔先に立たずとはいえどうしようもなく悔しいだろうと思う。岩をも突き抜けるほど悔しいのではないだろうか。

 

自宅に向かう車の中で、病院では聞けなかった話をした。
転んで痛んでいるときに通りかかった女性が、たまたま医療関係に勤めている方で、極めて適切な対応をしてくれたそうだ。近くにいた男性二人にも助けを求め、さらにタクシーを止め、上手に乗せてくれたと言う。運転手さんもいい方だったらしく、Sクリニックに着いたときには看護師さんらへの引き渡しもスムーズにおこなってくれた。連絡先や名前を聞いたが教えてくれなかった親切な女性をはじめ、みなさんにはこころから感謝したい。

 

慎重に運転してはいるが、少なからず振動があるのだから骨に響かないはずはない。脚はシーネと包帯で固定しており、痛み止めの処置をされているとはいえ、痛みはじんじんとかズキズキとかするだろう。だが怪我も大きいが、精神的な傷の大きさはもっと計りしれない。僕が受けているショックなどは、吹けば飛んでいくゴミみたいなものだ。車内での会話が弾むわけはないのだが、妙に彼女のテンションが高くなったりもして、それがかえって冬の花火のようにもの哀しい。

 

マンションの駐車場に着いてからも地獄だった。棟の入口前に止められるわけではないし、車から降りるだけでも極めて至難だ。しかも数十メートルは松葉杖を使って歩かねばならず、エレベータに乗り自宅にあがらねばならない。背中におぶえるならそうするのだが、脚を三ヵ所も骨折している人間をどうやっておぶえるだろう。半月板手術後のリハビリで、松葉杖を使えるようになっていたのだけが救いだったが、数歩歩いては立ち止まり数歩歩いては休んだ。

 

部屋にあがるのもまたひと苦労だったが、焦るわけにはいかないので慎重に行動した。
今日おきた不幸な出来事を掘り返す気にはなれない。転倒時に持っていた荷物の整理や入院にあたって必要なものの準備や段取りをしているうちに、あっという間に日付が変わった。息子たち二人に母親の骨折のことをメールで連絡すると、相次いで連絡があり僕よりもていねいに慰めてくれた。

朝まで起きているわけにもいかないので、ベッドを整えとにかく横にならせたが、朝までほとんど眠れなかったらしい。夜中じゅうずっと脚とこころの痛みに押しつぶされていたに違いない。なぜこんな酷いめに合わなければならないのか。どうして神さまは、からだや精神の痛みを人々にもっと平等に配らないのか。どこかのだれかに偏ってはいないだろうか。
不条理な悔しさや悲しみ、あるいはぶつけどころのない憤りに満ちた昏い夜だったのは僕も同じで、やはり微睡むこともほとんどなかった。

 

午前中の仕事は休み、H病院には11時に着いた。あらかじめSクリニックから連絡があったので、看護師が車いすを用意して出迎えてくれた。昨年もお世話になったので勝手は分かっている。入院手続きを済ませエレベータで病室へ向かう。するとその情景がつい半年前のシーンと重なった。ナースステーション、ロビー、ランドリールーム、そしてホスピタルな空気。またここへ還ってきてしまった。ふりだしに戻ってしまったのだ。

 

手術は翌々日の木曜日だった。
僕は仕事を一日休み、午前9時には手術室の前まで見送った。手術は全身麻酔でおこなわれ12時までかかった。病室に帰ってきた妻は眠っていたが、幸福そうな顔はしていなかった。しかし手術は終わったのだ。今ここからは、このときからは、ただ治癒に向かっていくだけのはずだった。

 

執刀したY医師の話を聞いたのはしばらく時間がたってからで、レントゲン写真を見ながら手術の内容を説明してくれた。折れた箇所をそれぞれ戻して、それらを固定するために20センチものプレートを14本のボルトねじで止めたと言う。たしかに写真を見ると十数本のボルトが串刺しになって見える。僕はどこも痛くはないのに気を失いそうになった。画像は紛れもない事実かもしれないが、冗談はやめてくれと文句を言いたかった。
そのプレートは1年後に取り出すので、また入院・手術となる。もしボルトを14本一度に抜くのが危険な場合は、さらにもう1年後に再入院になるとも言うのだ。僕は言葉も顔色も失った。

 

病室に戻り概ねの話を聞かせ、二人でため息をついた。
亡くなった岳父は、幼い頃に結核性関節炎の激痛で片足を切断した人だった。その血、あるいは痛みに耐え抜く精神を引き継いだのか、彼女も人一倍痛みには強い。とはいえ座薬と飲薬をもってしても、骨に突き刺さる痛みは堪えられないようで、夜は睡眠剤でつかの間の眠りを誘うしかなかった。

 

あたり前だが女は男と違う。いろいろな性差があり、生物学的な差はもちろん、体力・筋力や行動心理、価値観など、あらゆる違いが認められる。そうしたなかで、妊娠により胎児にカルシウムをはじめ栄養を吸い取られもするし、一定期間が過ぎると生理も閉経する。それによって失われるカルシウムも少なくないと聞いた。骨量が減少し骨密度も低くなるのだ。絵里子は十年前に子宮も全摘出している。そのこともカルシウム不足に関連するようだ。もしかすると骨粗鬆症的なものが誘因となり、転倒をきっかけとして骨折にいたったのかもしれない。
いまさら遅きに失した感はあるが、どうせならば長生きは元気で健康に過ごしたいものであり、退院したらより生活に細心の注意をはらわねばと肝に銘じた。女性はとくに気をつけたいものだ。

 

 


今日で手術から10日余りがすぎた。
割りきれない日々は続くが、それでも一日過ぎればその一日分の傷だけは癒されていくことを信じるしかない。
この日記をアップするにあたり、こんなものを公開するのはどうかとも思ったが、胸の中のものを吐露せずにはどうにも先には進めない気がした。

 

夕方に連絡があり、次男が週末に帰札して見舞いに来ることになった。
きっと僕よりはうまく力づけてくれる。
なにしろ、母親から容赦なくカルシウムを奪っていったうちの一人なんだから、地球よりも重い責任がある。

 


(この日記はカミさんに無断でのアップなんだけど)

舌の根と耳の聞こえについて。

舌の根も乾かぬうちに二日目の日記を書いてるnaviです、こんばんは。

 

最近。というほど近くはないのだが、還暦を迎える以前から、テレビの音や人が話している言葉の一部がよく聞こえないことがあった。まあ、その場の雰囲気でおおよそは理解したりするのだけど、ときどき外れることもある。もちろん、ここは正しく把握せねばというときは、ちゃんと確認をするが。

 

しかし、こういってはなんだが、どうでもいいコトについては放ったらかしたりするのはやむを得ない。いや、必ずしもカミさんのおしゃべりのコトを言ってるんじゃないよ。念のため。強く言っとくけど。大事だからここ。

 

話は戻るけど、ここ数日、鼻の調子も悪くてもわーっとしていたので、余計に耳が聞こえにくくなっていた。そこで、この際だから耳鼻科でちゃんと調べてみようと、とつぜん思い立ち、さっそく近所の病院に行ってきた。

 

カーテンで仕切られた診察室では、鼻の奥とか耳の穴など、いやん恥ずかしいというところまでも覗き見られたワケだが、聴力検査などもしっかりやってみた。ヘッドフォンを付け、電子音が聞こえたら手元のボタンを早押しするという、アメリカ横断ウルトラクイズみたいな検査だ。

 

その結果、耳の聞こえについては、なんと「典型的な老化現象ですね!」という分かりやすい診断だった。

あー。でもね。もうちょっとね。思いやりとか優しさとか奥歯にモノを挟めてとか言えないんだろうか。

 

具体的な説明としては、低温は聞こえるが高温は聞こえにくくなっているということだった。言われてみれば、離れていると電子レンジやタイマーなどの終了音がよく聞こえないことがある。しかし老化現象なら仕方がない。気合いを入れようが、細心の注意をしようが、正座して心を入れ替えようが聞こえんものは聞こえないではないか。

 

僕は少し悲しい思いをしながら、肩を落として会計を済ませたのだった。

 

ちなみに聴力検査のグラフを見せてもらったが、下の図の60代の下降線とほぼ同じだった。いや、もうちょっと右肩下がりだったかもしれない。

 

f:id:navi1954:20160213200448j:plain

グラフの横軸は、「ブーッ、ブーッ」という低い音から、「ピーッ、ピーッ」という甲高い音まで、音程の「高い・低い」を表している。またグラフの縦軸は、音の大きさを表している。数字が大きいほど大きな音を意味しており、グラフの線が下がる程、大きな音でないと聞こえない、難聴の程度が進んでいると言うことを意味する。

※出典;東京都環境局

 

……そういうことだから、みなさん、くれぐれも、傷つきやすいお年寄りには優しくするように!